書籍『「超」入門 失敗の本質』を批判する

先日『「超」入門 失敗の本質』(鈴木博毅、ダイヤモンド社http://www.diamond.co.jp/book/9784478016879.html) という書籍を読みました。こちら、ダイヤモンド社の今週の週間ランキングでも一位のようですし、都内の複数書店でも平積み特設コーナーで扱われておりビジネス書として注目を集めているのでしょう。

http://dl.dropbox.com/u/2586384/image/20120509_213420.png

内容としては、"累計52万部突破、今もっとも注目される組織論の名著を、若手戦略コンサルタントが23のポイントからダイジェストで読む。" とある通り位置づけとしては第二次世界大戦前後の旧日本軍の組織分析について書かれた『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)』に対する入門書という位置づけです。

結論から言いますと、この本には幾つかの点で個人的に首をかしげざるを得ないところがあると感じました。原典がある書籍である以上、そこは比較した上、原典の側に立って批判したい。ということで以下、その問題点について書きます。都合上『失敗の本質』を「原著」、『「超」入門 失敗の本質』を「入門」あるいは「入門書」として以下記述します。

なお、あらかじめお断りしておきますが、恥ずかしながら私は旧日本軍の戦史について専門的な知識を持ち合わせてはいないので戦史上の正誤という視点ではなく、あくまで原著と比較した場合に入門書がどうであるか、という視点においてのみ批判を行います。

そもそも原著『失敗の本質』とはどのような内容か

Wikipedia にページがあったので、引用しましょう。

『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』は、社会科学面での旧日本軍の戦史研究。6名の研究者(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)による共著

ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦レイテ沖海戦沖縄戦第二次世界大戦前後の日本の主要な失敗策を通じ日本軍の失敗の原因を追究すると同時に、歴史研究と組織論を組み合わせたノモンハン事件・太平洋戦争の学際的研究書である。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

問題点の整理

私が入門書に関して「これははどうか」と感じた点を先に整理し以下の点にまとめます。

  • 「入門」あるいは「ダイジェストで読む」という位置づけでありながら、そのような読者の期待する内容ではない
    • 原著を基に解説している箇所が割合的に少ない上、精読しなければその有り様が一見わからない
    • 独自の自己主張をさも原著の延長であるかのように論じており、誤解を招く。
    • 入門書における稚拙な企業分析ロジック
  • 誤読、あるいは本当に精読されたのか疑わしい記述が散見される
  • 原著の基本的姿勢と入門書のそれが矛盾している。より具体的には入門書における「日本人論」の展開

「入門」あるいは「ダイジェストで読む」という位置づけでありながら、そのような読者の期待する内容ではない

入門書における書籍のタイトルや、先に引用した概要からあるように読者がそこに期待するのは、原著を読み解く副読本としての位置づけでしょう。実際、序章では

ただ、『失敗の本質』は素晴らしい示唆を豊富に含みながらも少し難解であり、最後まで読み通した方、完全な理解ができている方は少ないかもしれません。
本書はポイントをダイジェストでまとめ、忙しいビジネスパーソンが『失敗の本質』を仕事で役立てられることを目的としています。
(『超「入門」失敗の本質』p.9 序章)

とありますし、当然読者は著者である鈴木氏が「難解」と評する原著を、わかりやすく解説してくれることを期待するでしょう。

しかし実際には、入門書全体を通して原著を読み解き解説している箇所は割合としてそれほど多くなく、著者の独自分析による現代企業に関する組織論であったり、原著とはまた別の戦史に関する書籍を基にした自説の展開が多く見られます。要するに、これは解説書の体はなしておらず、あくまで著者の自説を展開するために原著ないしはいくつかの戦史を引用しているものだと、そんな構造です。また、その自説というのが原典でも展開されているものならともかく、まったくそのようなロジックが原著に見当たらない。

例えば第1章では「第一次世界大戦、ドイツ敗戦の理由」と題して、当時の陸軍参謀石原完爾の提唱した「総力持久戦」について語られていますが (そもそも石原完爾についても原著では特に触れられていないはず。すなわち別の書籍からの引用)、その石原完爾の「総力持久戦」に対して当時の日本軍が主張したのが「決戦戦争」ということで二つの戦略が矛盾していたと、それを基に "日本は戦略の「指標」が間違っていた" と自説を展開しています。

両者の違いから、一つ重要なことが浮かび上がります。それは、戦争の勝敗が決まる戦略の「指標」の違いです。
(中略)
石原完爾と日本軍がこの段階で戦略を持っていたと仮定すると、以下のことが推測できます。
「戦争とは追いかける指標のことである」
(『超「入門」失敗の本質』p.48 第1章 なぜ「戦略」が曖昧なのか?)

と「追いかける指標」というキーワードを持ち出します。この「指標」というワードは本書全体で使われていて、ことあるごとに日本軍は「指標」を間違えていたから、とか米軍は正しい「指標」を選んだから、あるいは日本企業は、米国企業は、インテル日本電気メーカーは、アップルは・・・というような形で論理が展開されています。でも、そんな「指標」という言葉も、指標が云々というロジックも原著には見当たらない。

ほかにも、ガダルカナルでの航空戦で米軍がVT信管を開発、パイロットの技能頼みだった日本軍に対して、ある程度の能力があれば比較的容易に命中する兵器を作り出したと、その様子を "米軍側が「ゲームのルールを変えた」ことで、勝利につながる要素も変化したのです" (同著 第2章 なぜ、「日本的思考」は変化に対応できないのか? p.78) と「ゲームのルール」というキーワードを持ち出し、以降も繰り返し「ゲームのルール」という枠組みで、例えば "「ゲームのルール変化」に弱い日本組織の仕組み"などの自説を展開しているけど、これも原著ではそのような言葉はなし。

"第3章 なぜ、「イノベーション」が生まれないのか"、では、やはり原著ではほとんど触れられていない日本陸軍参謀 堀栄三の提唱した戦法を題材に "イノベーションを創造する三ステップ" として

  • ステップ1 戦場の勝敗を支配している「既存の指標」を発見する
  • ステップ2 敵が使いこなしている指標を「無効化」する
  • ステップ3 支配的だった指標を凌駕する「新たな指標」で戦う

(『超「入門」失敗の本質』p.107 第3章 なぜ、「イノベーション」が生まれないのか)

というフレームワークのようなものが紹介されていますが、これも著者の勝手な自説で原著のロジックではない。そしてこのフレームワークを当てはめて米軍のサッチ・ウィーブ戦法 (旋回性能が零戦に劣ったF4F戦闘機の弱点を克服するための航空編成) や米軍のレーダーなどのイノベーション特性を分析している。けどやっぱり原著でそんなフレームワークはどこにもない。つまりこのフレームワークも、入門書著者による独自なもの。

で、スティーブ・ジョブズイノベーションとして、Next、ピクサー、アップルなどに焦点を当てます。(この辺は、まあ、お馴染みの・・・) この、著者自慢のイノベーションを創造する三ステップをもって

スティーブ・ジョブズの偉大な功績は、ビジネス界の伝説そのものですが、本書の理解ではその原動力は、天才が何らかの啓示的なもので成し遂げたことではなく「イノベーション創造の三ステップ」を明確に頭の中で反芻し、その公式に当てはまる状況を作り上げた結果だといえます。天才的なひらめきだけでは、生涯に何度も成功を再現できないはずだからです。
(『超「入門」失敗の本質』p.123 第3章 なぜ、「イノベーション」が生まれないのか)

ジョブズがその三ステップとやらを反芻していたと断言するのですが。さすがにそれは・・・。

全体を通して微妙な論旨展開がところどころ見当たるので「本当に原著にそんなことは書かれているのか」という疑問を感じていたのですが、上記をもってそれが確信に変わり、結局原著を読むことにしたというのがことの経緯です。特に疑問を持たずに読んでいると「なるほど原著にはそんなことが書いてあるのか」と誤解を招くような構成になってるとも言えます。

まあ、序章で

本書は名著『失敗の本質』から、私がビジネス戦略・組織論のコンサルタントとしてどのようなことを学び、仕事の現場で活かしてきたかを解説しながら、皆さんとともに学んでいく書籍です。

(『超「入門」失敗の本質』序章 p.6)

とあるので、好意的に解釈すれば、これを原著の解説本あるいは副読本だと期待するのがそもそも間違っていると、そういう考え方もできなくはないけれど、どうでしょうかね。自分の場合はそうはいきませんでした。

独自の自説を展開するだけでなく、その持論も色々と粗が目立って、インテルやアップルなどの米国企業の戦略は賞賛する一方、アメリカでホンダがスーパーカブで成功した件は「戦略を意図せず偶然発見してその戦略自体にも無自覚だった」という話になってしまうし、「日本企業が戦略を苦手にする理由」と題して日本企業を批判するかと思えばそこでの対する事例に、日本企業の寒天の伊那食品工業の成功事例を持ち出す。このあたりは正直、意味がわからなかったし

検索エンジン大手のグーグルも、オープンソース戦略と秘匿性の高い独自検索エンジンのサービスを組み合わせることで、世界中で最も利用されるとなり、APIによるオープンソースを普及させながら、事業収益を極大化することに成功しています。
(『超「入門」失敗の本質』第2章 なぜ、「日本的思考」は変化に対応できないのか? p.89)

"グーグルのオープンソース戦略" とか、"APIによるオープンソース" って何だ。仮にそんなものがあったとして、どうしてそれが事業収益を極大化することにつながるのかよくわからない・・・など、その理解はどうかと言わざるを得ない。

ネガティブ批評ばかりではフェアではないので、一応補足しておきます。間違い、よくわからない箇所は多いとは言え、全てが間違いではないとは思いますし、確かに、無理にそのほか参考書の併読を要求しないという点で、わかりやすいと言えばわかりやすい本だとは思います。もしかすれば、私とは違って、著者の鈴木氏のビジネス分析の運びに共感する方もいるかもしれない。

ただ、そのわかりやすさを得るために原著の内容を悪い意味で萎縮化していたり逸脱していたりと言う点でのトレードオフに無視できない部分が多く、気をつけて読まなければ名著と評価されている原著の評価すらも貶めることになりかねない、と感じました。

誤読、あるいは本当に精読されたのか疑わしい記述が散見される

以上、「原著に書かれていないことが多い」という点は人によっては歓迎するところかもしれませんが、原著の内容を誤読してしまっている箇所はさすがに許容するのは難しいでしょう。

例えば

太平洋の覇権をかけて日米が激突したミッドウェー作戦では、日本の連合艦隊が戦力的に優勢でした。
しかし、実際の戦闘では、暗号が直前でほぼ解読され、日本軍は空母を先に撃沈されて惨敗します。一方で日本はミッドウェー島の空爆には成功しますが、米軍機による警戒とレーダー監視により米軍航空機はすべて退避しており、実質戦果は乏しく海戦の最終的な勝利にもつながりませんでした。
(『超「入門」失敗の本質』p.39 第1章 なぜ「戦略」が曖昧なのか? )

と、ミッドウェー海戦の日本軍の敗北の要因に暗号の解読を挙げてそれによって日本軍の空母が撃沈されたとしている。米軍は情報を正確に把握していて、的確な行動をとることができた。それによって劣勢にあるミッドウェー海戦での戦力差をひっくり返したという風に解釈しているようですが一方の原著ではどうでしょうか。

後知恵によれば、このような情報量の差が、米海軍に圧倒的な勝利をもあたらしたといえるが、これに関して『ニミッツの太平洋海戦史』は次のように指摘している。「米国ニミッツ提督が得た情報は、日本の目的、日本部隊の概略の編成、近接の方向ならびに攻撃実施の概略の期日に関するものである。このように敵情を知っていたことが米国の勝利を可能にしたのであるが、日本の脅威に対処するにはあまりにも劣勢な米兵力の点からみれば、米国の指揮官にとって、それは不可避な惨事を事前に知ったようなものであった」。
(『失敗の本質』p.78 第一章 失敗の事例研究 ─ ミッドウェー作戦)

とあるように、米軍が暗号を解読していたことは確かに一定の効果をもたらしたものの、それについて必要以上の評価は行っていない。そして、以下引用が長くなりますが「航空基地の爆撃を避けられたのが情報を事前に知っていたから」ということはどこにも書かれていなければ、さらには、日本の空母を撃墜できたのは暗号解読など情報戦の結果ではなく、そこに相当な偶然が作用していたことがわかる。むしろ、そのような想定外の錯誤が起こった際の意志決定メカニズム、また迅速な意志決定が可能になるよう整合性の取れた戦略が背後にあったことを日米軍隊の差として挙げている。このあたりは、原著と入門書で大きくその解釈が異なっていて、入門書の誤読に思います。

第一機動部隊 vs. ミッドウェー航空基地

ミッドウェー上空に達した日本軍攻撃隊は、〇三三〇頃第一弾を投下、約三〇分間にわたり計画どおりミッドウェー基地に対する攻撃を実施した。しかし、同基地の航空兵力はすでに発進ずみで地上にはほとんど残っておらず、基地施設に大損害を与えたものの、滑走路などの破壊も十分ではなかった。このため、攻撃隊指揮官からは、第二次攻撃の必要がある旨の報告が〇四〇〇に第一機動部隊に入った。
これに対して、ミッドウェー基地を発進した米軍航空部隊は〇四〇五頃から日本軍第一起動部隊上空に到達し、逐次攻撃を開始した。これは小兵力による断続的なもので、〇五四〇まで約一時間半にわたって続けられることになる。しかし、この攻撃は戦闘指揮不適切のためまったく事前の打ち合わせもなくバラバラに実施され、さらに搭乗員の伎倆不足もあって、一発の弾丸、魚雷も命中させることができなかった。そればかりでなく、第一機動部隊が第二次攻撃隊用に控置した戦闘機の大部分を発進させ防空戦闘に従事させたため、来週期の大半は撃墜され、米軍側の損害はきわめて大きく第二次攻撃を断念せざるをえなかったほどであった。
このように、ミッドウェー基地航空部隊は、日本軍機動部隊の発見、接触に哨戒機が大きな役割を果たしたものの、日本機動部隊に対する攻撃そのものには見るべき成果がなく、きわめて大きな被害を受ける結果となった。しかしながら、この長時間にわたる断続的、不統一な攻撃は、意図せざる結果として、日本軍側に上空警戒機の連続配備、攻撃隊の兵装転換遅延をもたらし、南雲司令長官の戦闘指揮をむずかしくさせる一因にむすびつくことになったのだった。
(『失敗の本質』p.83 第一章 失敗の事例研究 ─ ミッドウェー作戦)

加賀、赤城、蒼竜の被弾

第一機動部隊のミッドウェー攻撃隊と上空警戒機は、〇六一八までほぼその反芻が各空母艦に収容された。ちょうどこの頃、米機動部隊から発進した攻撃隊が第一機動部隊上空に到達したのである。最初に目標を発見したのは「ホーネット」から発進した雷撃機隊であった。次いで「エンタープライズ」の雷撃機隊、そして遅れて発進した「ヨークタウン」の雷撃機隊が相次いで日本機動部隊を発見し、攻撃に移った。
この米空母機による攻撃は、日本側が予想したものよりも早いものであり、多数の航空機を収容し艦内が混乱しているさなかの最悪のタイミングで受けることになってしまった。しかしながら、さきのミッドウェー基地からの米軍機の攻撃と同様、今回も防空戦闘で来襲機の大半は撃墜されたのだった。米空母機の攻撃は〇七〇〇頃一時とぎれ、再び開始されたが、上空警戒機の活躍と、米軍機の伎倆拙劣のために多数が撃墜され、さらにたくみな操艦回避運動によって、艦隊に対する損害はほとんどなかったのである。
以上のように、米機動部隊を発進した攻撃隊は全兵力一体となった協同攻撃を行うことができず、低空を進撃する低空の雷撃機体が単独でバラバラに攻撃することになってしまった。このため、一本の魚雷も命中させることができず、ほぼ全滅に近い損害を受けたのである。しかしながら、この雷撃機隊の攻撃が日本側の注意を低空に集中させることになり、結果的には遅れて攻撃に入った爆撃機体の奇襲を成功させることになったのである。
〇七二三頃、第一機動部隊の各空母は、米空母雷撃機隊の攻撃に対処するための回避運動に従事し、上空警戒機もこれに対処するために大部分が低空に降りてきていた。ちょうどこのとき、高高度より米空母爆撃機隊が接近してきたのである。これはさきに「エンタープライズ」から発進した爆撃機隊であり、雷撃機隊とほぼ同じ頃発艦しながらバラバラに進撃したため回り道をして、遅れて第一機動部隊上空に達することになったのであった。つまり、この「エンタープライズ爆撃機隊は進撃方向が南にずれてしまい、燃料の余裕もなくなり索敵をあきらめて帰投しようとしたが、念のため北へ針路を向けたところ、偶然にも第一機動部隊を発見したのである。さらに引き続いて「エンタープライズ」攻撃隊より一時間遅れて発進した「ヨークタウン」爆撃機隊がこの攻撃に合流することになり、第一機動部隊の「加賀」「赤城」「蒼竜」の三空母は、相次いで急降下爆撃による奇襲を受けるに至った。
すなわち、〇七二三頃「加賀」が九機の攻撃を受け四弾命中、〇七二四頃「赤城」が三機の攻撃を受け二弾命中、〇七二五頃「蒼竜」は一二機の攻撃を受け三弾命中し、いずれも大火災となったのである。このとき各空母は攻撃準備中であり、各機とも燃料を満載し、搭載終了あるいは搭載中の魚雷や爆弾が付近にあり、艦内は最悪の状態であった。これによって、第一機動部隊は四隻中三隻の空母を失うことになるのである。
しかしながら、米空母攻撃隊のこのようなめざましい成果は、必ずしも当初に予定されたシナリオどおりの作戦行動によってもたらされたものとはいえない。そこにはさまざまな錯誤ないし偶然が重なっていた。「ホーネット」「エンタープライズ」「ヨークタウン」から発進した各隊はバラバラに目標に向かい、意図せざる結果として、雷撃機隊による攻撃と爆撃機隊による攻撃とが連続し、しかも「エンタープライズ」と「ヨークタウン」から発進した爆撃機隊の急降下爆撃がほぼ同時になされることになったのだった。しかし、これは偶然ないし意図せざる結果であったとはいえ、指揮下の全機全力攻撃を果断に決定したスプルーアンスの意志決定のもたらしたものであった。彼の瞬時の果断な決定は、日本側の意志決定の遅れや逡巡と、きわだった対照をなしていた。なお、「ホーネット」から発進した爆撃機隊と戦闘機隊は、このとき日本軍機動部隊を発見することができなかった。また、米軍の航空機の犠牲はきわめて大きく、とくに雷撃機は全滅に近かった。
(『失敗の本質』p.89 第一章 失敗の事例研究 ─ ミッドウェー作戦)

ミッドウェー海戦に関しては以上。

誤読以外にも、好意的に解釈しすぎている点もあります。以下は、沖縄戦における八原大佐が大本営の戦略に従わず持久戦にもちこんだことについての解釈です。入門書では

過去の成功体験が通用しなくなるとき

(中略) 中央の大本営は航空戦力至上主義を元にした作戦を提示するのに対し、現場最前線にいた八原大佐は

  • 日本軍、沖縄周辺の航空戦力の実態 (極めて弱体化していた)
  • これまでの日米航空作戦の経緯 (過去敗北を重ねている現実)

などの点から、上層部が盲信する基本方針がすでに機能しないことを看破し、水際防禦と飛行場守備を破棄、内陸部に陣地を構築して持久戦の遂行を立案します。
(『超「入門」失敗の本質』p.137 第4章 なぜ「型の伝承」を優先してしまうのか?)

「痛快至極」と八原大佐がのちに語ることができたのは、水際防禦という方針を放棄できたからです。基本方針であった水際防禦と飛行場守備を盲目的に実行していれば、この猛砲火に日本軍は曝されたはずです。八原大佐が戦後に本を書き、極めて感慨深い印象を書籍に残すこともおそらくできなかったでしょう。
(『超「入門」失敗の本質』p.138 第4章 なぜ「型の伝承」を優先してしまうのか?)

・・・と、大佐の行動を非常に好意的に解釈してこれを戦略の転換だと肯定的に捉えている。原著でも、大本営の指示に従ったところで被害は拡大していたであろうと八原大佐の意志決定にはある程度の評価は与えてはいるもののその行動の解釈には続きがあって

第二の原因は、第三二軍の上級司令部に対する真摯な態度の欠如に求められる。たとえ上級統帥が麻のごとく乱れる事態があったにせよ、国軍全般の戦略デザインとの吻合を顧慮することなく、自軍の作戦目的・方針を半ば独立的に決定することは、軍隊統帥の外道としてきびしく指弾されなければならない。
第九師団の抽出転用を契機とする新作戦方針の策定にあたり、第三二軍は、自軍の基本任務の解釈について、上級司令部に指導・調整をまったく仰ぐことなく、独自に処理した。したがって、航空決戦を本質とする大本営の天号作戦計画と、戦略持久を策する第三二軍の地上作戦計画とは、事前にまったく吻合されることはなかった。第三二軍に不信感を醸成させるような上級統帥があったとしても、錯誤の連続ともいわれる苛烈な戦場の実相からすればありえない出来事ではない。軍事合理主義に徹するとすれば、かかる状況においてこそ上下の吻合を図る努力が傾注さるべきであった。
(『失敗の本質』p.261 一章 失敗の事例研究 ─ 沖縄戦)

と、「軍事合理主義に反している」と結果的にその行動は批判の対象になっている。全般的に、入門書では日本軍 (日本人) が合理性を欠いた行動を取りがちな点を論っているけれども、この沖縄戦の解釈に関して言えば、「八原大佐の行動を無条件に肯定することこそが合理性を欠いた行動である」というのが私なりの原著の解釈です。

三点目。日本海軍空母の防禦性能が低かった点について、トム・デマルコの『熊とワルツを』を引きあいに出しリスク評価の観点ついて論じ

幸運にも「リスクをかわすことができた」場合、対策のコストや労力もかからないことで「リスク隠し」は得をしたのでしょうか?残念ながら違います。
プロジェクトが脆弱であることに一切変わりがありません。むしろ「リスク隠し」のままリスクを偶然かわせたことは、次回以降のリスク発現性を逆に高めてしまいます。
例えば、日米の空母でも、リスク対策の違いは歴然としていました。
(中略)
空母に敵弾が当たる可能性を認めるように、リスクを公表・周知させるメリットは大きく、企業製品による自己、リコール等の問題でも、可能な限り早いリスク公表、リスク周知が第二第三の自己と連鎖被害を確実に防ぐことにつながるのです。
(『「超」入門 失敗の本質』第7章 なぜ「集団の空気」に支配されるのか)

とそれを主にディスクロージャーの話に帰結させています (そのあとに「耳に痛い情報を持ってくる人物を絶対に遠ざけない」とかある) が、原著ではこの戦闘技術体系のアンバランスさはリスクファクターの開示云々ではなく日本軍の短期決戦思想から導かれるものであると、その構造から分析している。つまり、米軍は大東亜戦争を長期持久戦だと捉えて技術体系を総合的に高めていったのに対し、日本の戦略は日露戦争から続く艦隊決戦主義による短期決戦であったため、防禦性能を犠牲にして、零戦はその持続力と旋回性能、大和は長距離砲による攻撃力という一点豪華主義を取るに至ったその結果であると論じています。このあたりも、原著と入門書でその分析の軸がずれていて、どうかなと思うところです。

以上、三点ほど、個人的に気になった点を比較していますが、原著と読み比べるとその矛盾が気になる箇所はほかにも多数見られるでしょう。

原著の基本的姿勢と入門書のそれが矛盾している。より具体的には入門書における「日本人論」の展開

原著と入門書での矛盾というので、個人的に一番気になったのは、この戦史分析における両著の基本姿勢の違いです。

原著は基本的に、失敗の原因を安易に「日本人とは」とか「リーダーシップとは」というような国民性や特定個人に帰着させようとはしない。あくまで組織特性などの「構造」に視点を当てて、例えば典型的な日本組織的行動パターンが見られた場合も、そのような行動がどのような構造から生み出されたのかシステム的観点から分析しようとしている。

一方の入門書の方は、"日本人は大きく考えることが苦手" とか "日本人は革新が苦手で錬磨が得意"、"自分たちでルールをつくり出すことができず、既存のルールに習熟することばかりを目指す日本人の気質" (以上すべて序章より) だとか典型的な「日本人論」にその原因を求めがち。

原著がそれとは対照的なのは、私が読んだ限りおそらく「日本"人"」という単語が原著に一切出てきていない(もしかすれば、意識していない箇所で出てきているかもしれないが、それでもその程度) ことからも分かる。常に「日本"軍"」と組織を主語にしてその構造分析を行っています。

あくまで個人的な考えですが、組織論というのはそこで物事の成功要因あるいは失敗要因を個人あるいは気質のようなものに求めた時点で、その論理的価値が台無しになるものだと思います。原著の価値は、日本軍における特異性・・・日本組織的特性は認めつつも、なるべくそのような安易な結論だけに帰着させない姿勢を貫いていることだと感じました。

以下、その原著の基本姿勢が伺える箇所を引用しましょう。

より明確にいえば、大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することが、本書の最も大きなねらいである。それは、組織としての日本軍の遺産を批判的に継承もしくは拒絶すること、といってもよい。いうまでもないが、大東亜戦争の遺産を現代に生かすとは、次の戦争を準備することではない。それは、今日の日本における公的および私的組織一般にとって、日本軍が大東亜戦争で露呈した誤りや欠陥、失敗を役立てることにほかならない。
(『失敗の本質』序章 P.23 日本軍の失敗から何を学ぶか)

しなくてもよかった作戦。戦略的合理性を欠いたこの作戦がなぜ実施されるに至ったのか。作戦計画の決定過程に焦点をあて、人間関係を過度に重視する情緒主義や強烈な個人の突出を許すシステムを明らかにする。
(『失敗の本質』P.23 一章 失敗の事例研究 ─ インパール作戦)

この海戦を特徴づけているもう一つの点は、攻撃主力の栗田艦隊(第一遊撃部隊)が、最終目的地点であるレイテ湾突入を目前にして反転してしまったことにある。戦後これが栗田艦隊の「謎の反転」として、その是非について多くの議論がなされたことは周知のとおりである。この問題を考えるにあたっては、指揮官個人の資質や責任という点もさることながら、その作戦計画、統帥、戦闘経過に露わにされた日本海軍の持つ組織的な体質とその特性にこそ注目する必要があるものと思われる。
(『失敗の本質』P.180 一章 失敗の事例研究 ─ レイテ海戦)

いったい、なぜ日本軍はこうした失敗をおかしたのであろうか。各々の作戦に現れた戦略と組織のどこに問題があったのか、それにはどのような共通の特性が存するのであろうか。本章ではこうした問題意識に基づいて、六つの敗け戦のなかに表出した日本軍の組織的特性を明らかにしていくことを課題としている。別のいい方をすれば、組織としての日本軍の失敗を組織論の観点から論じようとするのである。
(『失敗の本質』P.266 二章 失敗の本質)

一方の入門書は

世界的に著名なイノベーションとして、パソコンのOSであるウィンドウズやアップルのiPodiPad等がありますが、創業者のビル・ゲイツスティーブ・ジョブズのような経営者が、なぜ日本で生まれないのか。その理由はゲームのルール自体を変えるような破壊的な発送ではなく、型の習熟と改善を基本とする日本的思考と関係しているのかもしれません。
(『「超」入門 失敗の本質』第2章 なぜ、「日本的思考」は変化に対応できないのか?)

という形で、"日本的思考" なるそれ以上客観的な分析が不可能な単位に物事の結論を帰着させてしまいがちで、この点が非常に安直であるように思います。物事の原因や戦略の背景を、システムつまりは構造の観点から捉えることこそがおそらく原著も入門書も薦める西欧的かつ合理的な姿勢なんでしょうが、対してこのように日本的思考といった精神的なものに答え求めることは両書籍が終始一貫して批判している精神主義そのもの。入門書の方はその意味で完全に自己矛盾しているように思います。

結論

長々と書きました。入門書は学ぶところがないとは言いませんが、冒頭で述べたように人によっては期待と異なる内容である場合があるのでおすすめできません。

個人的には、原著を精読する機会をこの入門書から貰ったようなものなので、そこまで手厳しく批判すべきものかどうかというのもありますが、Amazon.co.jp のレビューその他をみていても自分が感じたような問題点の指摘は多くないようなのでここに書き残しておきます。

なお、原著で各作戦の事例研究以降のまとめにあたる第2章、第3章を読み解くにあたってのメモを以下の URL においておきます。原著がどんな内容か俯瞰してみたいという方のお役にでも立てば幸いです。

戯言: カリスマ待望論と高度な平凡性

最後に、書籍批評とは少し脇道に逸れる個人的な考えを。

この本のように、近頃の経済論、特にIT界隈周辺ではすぐにジョブズが、ゲイツが、あるいはザッカーバーグが・・・という話になりがちだけれども、そういうカリスマ的なものに答えを安易に見出そうとするのは、問題があるのではないかという考えに近頃なってきている。

物事の原因をそのシステムや周辺構造ではなく、個人の素質や気質あるいは民族的な気質に求めてしまった場合、ではそれを解決するにはという対案もまた、それを克服した個人や民族的気質というところに帰着しやすい。となるとそこには、一般的な人間が何気なく成長した姿ではなく、超人的な姿や人格者を求めることになる。それがカリスマであり、革命的前衛的組織ということになるのではないか。結局、そういう安易なものの見方は「カリスマ待望論」につながっていく。

このようなカリスマ待望論は、結果的にファシズム権威主義の肯定あるいは設計主義的な考えにつながりやすい・・・ というのがまだ勉強不足なので断言できないのだけれども、そのような感覚は抱きます。

大衆的な高揚を、前衛的な革命組織が指導する、という構図そのものが間違ってる。この構図は必ず権力を必要とし、その権力は自己正当化をはかるので、スターリン主義になるに決まっている。
(橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』)

と、ちょっと話が大袈裟ですけれど。

そんなわけで、日々大小さまざまな仕事をしていく上でも、その組織を考えるときにものごとの原因を個人に求めたり、あるいはカリスマプレイヤーが表れることに期待するのは結果的に望まない結果を招くのではないかと近頃思うこともあります。一方で、バザールモデルで成功したオープンソースプロジェクトの鍵は「優しい独裁者」なんていう話もあるので、必ずしも独裁者的振る舞いを許すことが失敗につながるわけではないのだろうし、組織構造というのは非常に不安定あるいは紙一重な土台の上に立ってるんだなと溜息をつくわけであります。

原著を読んでいて面白かったのが、「高度の平凡性」という概念でした。

日本軍人の勇敢さや個々の士官の優秀さは米軍側も認めるところであったが、こうした人々は巨大で複雑な、組織化された現代戦の作戦で成功を勝ちとるのに必要不可欠な「高度の平凡性」(フィールド『レイテ湾の日本艦隊』)が不足していたのである。
フィールドはその具体的な表われとして、次の点をあげている。

  1. 聡明な独創的イニシアチブが欠けていたこと
  2. 命令または戦則に反した行動をたびたびとったこと
  3. 虚構の成功の報告を再三報じたこと

こうした一つ一つの小さな失策が積み重なって、作戦全体の帰趨が決定づけられたのである。各自が錯誤の余地を少なくするためには、日常的な思考・行動の延長の範囲で活動できることが必要である。
(『失敗の本質』一章 失敗の事例研究 ─ レイテ海戦 p.221)

優秀なリーダー、カリスマ指導者というのは結果的に輩出されればそれに越したことはないのだろうけど、そういうものに組織的な成功を求めるではなくて、「"平凡性"を高度に追求していく」という方針もあり得るんだなというのが、ひとつの収穫でした。まあ、自分が「平凡であれ」と言われたら、ちょっと反発したくなる気もしますけど。

終わり。