エンジニアだからなんとか

昔から「エンジニアは営業が苦手」とか「エンジニアはデザインが苦手」とか、あるいは「エンジニアはコミュニケーションが苦手」というような言われ方が嫌いだった。

実際、営業が苦手なエンジニアというのはいると思う。でもそれはエンジニアだから苦手なのではなくて、単にその人が営業が苦手なだけだ。同じように、デザインに関してもコミュニケーションに関してもそうだ。

おおまかにそういう傾向があるということまでは否定はしない。例えばプログラミングのカンファレンスに行くとそこでは男性率が非常に高いし、全体としては、まあなんというかリア充とはちょっと違う雰囲気を醸し出している・・・というようなところがあってそれは誰もが感じることだろう。集団を集めて一般化してみるとそういう何かしらの傾向が現れる、ということまでは否定はしない。

でもやっぱり、その「エンジニアだから○○」という型にはめたような話を自分自身にあてがってみると、そこには堪えがたい違和感があって、感情的な反発を隠せなかった。

自分は子供の頃、絵を描くのが好きだった。学校の授業で一番好きだったのが図工や美術でそれらの成績はいつも良かった (ドヤ)。 結局その後は継続してそれを続けてこなかったから、その類の出来はもう小中学生のときのレベルで止まっているけど、今でも絵を描くこととかデザインへの興味関心というのは自分の中では相対的に高い。だから「エンジニアだからデザインは駄目なんでしょ」と言われると「は?」と反発する。できないなりにも。

ずっと前にも書いたけれども、エンジニアだからこそ(あるいはエンジニアリングに理解があるからこそ) できるデザインというのがあると思う。昨今は、ソフトウェアエンジニアリングの世界、特にウェブ開発ではデザインとエンジニアリングの境界が曖昧になった結果としてのプロダクトが多数みられるので、これに関しては以前より多くの共感を得られるのではないか、と思う。結局、「エンジニアはデザインは苦手」という言い分が間違っていたということだ。(そもそも、良いコードを書くということは、良いデザインをするということでもあるから優れたプログラマーは優れたデザイナーでもある。見た目がいけてない物を作っちゃうのは、良いビジュアルデザインを作るという訓練をしてないだけであって、デザインができないということではない。)

そういう風に、型にはめてしまうのは良くない。そう思っていた。

昨晩、以前に同じ職場で働いていて自分が作っていたサービスで一番コードを書いていたエンジニアと会って話しをした。(知っている人はこの時点でもう誰の話だかはわかると思うけど。)

彼は僕からみたらなんというか・・・非常にハッカー気質で、新しい技術やノウハウに非常に関心が高く先鋭的だった。何か新しいことをするにつけ「どっからそんなテクニックを仕入れてくるの?」といつも不思議に思っていたし、またそのノウハウをうまくアレンジしてプロダクトの形にする発想の豊かさも抜群だった。

その彼が、最近はマネジメントを中心にやっていると言う。勤怠管理や人事評価、あるいは採用フローの確立など。

自分の中にある彼に対するイメージでは、物を作るのが好きで、手を動かすのが好き。それに適する能力も申し分ない。マネジメントとか会議とかをするぐらいだったら、ずっと作ることをしていたい・・・ そんな感じだった。だから、自分がチームをマネジメントしていたときは、なるべく彼をそういう(自分の価値観では)面倒なことには巻き込まずに、作ることに専念できるように・・・ということを考えていた。

「マネジメント、すごく楽しいんですよ」と、彼は言った。話を聞いている限り、本心からそう思っているみたいだ。とても熱心に語っていて、情熱をもって仕事に打ち込んでいるというのがよく伝わってきた。自分の裁量で、組織を動かしてより大きなコミットメントをなすことができるのが楽しいと思っている、そういうことだった。

その話を聞いて、はっとしてしまった。自分は「エンジニアはこういう人間だから」と型にはめられることをあれだけ嫌っていたのに、その自分が同じように、彼に限らず、一緒に開発をしていたひとたちを「こういう感じだから」と型にはめて考えていたのだった。彼のようなエンジニアはマネジメントはしたくないだろう、彼は物作りに徹していたいだろう。それが彼にとっての幸せだろう・・・。

こういう感じを味わったのは今回が初めてではなかった。

以前同じ職場で働いていた同僚が他の会社に転職するなどして、それまでよりもずっと幅広い領域で活躍をしているなんて話を聞く度「へぇ」と思うと同時にほんの少しでも「意外だな」と感じてしまうあたり、やっぱり相手を型にはめて理解しようとしていたんだということに気づく。そのたびに反省し、ちょっとした自己嫌悪に陥る。

ものごとを型にはめて評価するというのは、一般化されたイメージにあてはめて単純化してしまおうとすることであって、ある意味では手抜きだ。それが有効な場合もあるけど、他人に対してそれをやってしまうと、だいたい間違うのではないか。他人が自分の想像や認知の範囲内に収まるなんてことはまずない。そんな当たり前のことを忘れて考えてしまうことがいかに多いことか。

「他人を評価できる」なんて思わないほうがいいのかもしれない。とはいえ、その相手が今なにを感じているか、ということに想像力を働かせることなしに物事をうまく推し進める、あるいは人間関係を良好に保つのは難しい。そこに想像を働かせるには経験とか一般化とか、そういうものを頼りにしていく必要がある。そういう矛盾をはらんでいる。

結局、面倒くさいのだけれど、相手その相手に対して個別個別に考え、捉え、感じていくべきことなのだろうし、そういう、自分が型にはめてほしくなかったけど自分が同じことをしていたということに気づいて感じる自己嫌悪みたいなものを、これからも都度都度感じながらやっていくしかないのだろうな、と思ったのだった。