ソフトウェア技術者としての残り時間

年始の NHK でのイチロー特集番組を見ていて一番印象に残ったのは、他の人の道具を絶対に触らないというイチローのこだわりでした。曰く、人の道具を触るとその道具の感覚が体に残ってしまい、自分の道具を利用するときの感覚の妨げになるから、ということでした。全体を通して、イチローは他のプレイヤーとの相対的な競争の中に身を置いているのではなく、絶えず自分を改良し続けるという過程の中にいるのだというのがよくわかる内容でした。良い番組だったと思います。

気づけば自分も 30 歳になりました。まだ若いとは思っていますが、さすがに 20 代の頃に比べると、病気や怪我の治りが少し遅くなったと感じることもあり、少しずつ自分の人生、「死」ということを考えるようにもなりました。時間は有限ということが少しずつ実感できるようになってきました。あるいは実感できるようになってしまった、と言った方が良いかもしれません。

ここ数年は「継続は力なり」という諺がとても本質的な言葉だと実感する日々でした。はてなのサービスは、継続して開発/改善を続けているサービスは盛り上がりを見せますが、途中で息切れしてしまったサービスなどは、不思議なことにその瞬間から下降線を辿ります。ソフトウェアの世界で継続が実を結んだ例というのをいくつも見てきました。昨今の代表例は、やはり 10 年間開発を続けて来た結果である Ruby でしょうか。

継続が力となることが分かったところで時間が有限であることもまた分かり、では限られた時間の中で何かを成し遂げるには、その何かを継続しなければならない、つまりそれは、何かを捨てて何かを選択することなんだということも思うようになりました。頭では分かっていましたが、それを肌で実感するようになったのはやはり、年齢的なものが大きいのかもしれません。

インターネットは情報の伝達速度をどんどん速めます。ブログに始まり、フィードリーダーソーシャルブックマークミニブログなど、個人をエンパワーメントするツールの進化は止まることを知りません。しかし、情報は自らを成長させるエネルギーであるとともに、自らを躊躇させる罠でもあります。イチローがほかのプレイヤーの道具に触れないのと同様に、どこかで割り切ってそれら罠にかからないよう、距離を置く必要があるのだろうと思います。

自分は残った時間で何を選択して継続すべきか、そういう岐路に立っているのだと思います。京都に来て一週間が経とうとしています。何を選択するかを考え続けたり、ライフワークとして何か継続するための土地としては悪くはないな、と感じています。何が自分にそう思わせるかについては、まだ自覚的ではありません。

最近感銘を受けた文章を二つほど引用して、お茶を濁すとしましょう。

刺激を受け過ぎない

大型書店に足を運ぶと,大量の書籍に圧倒されます。また,高度な内容のブログを読むと,著者の知識や技術への理解に圧倒されることもあります。こういった刺激はプラスにもなりますが,あまり刺激が多過ぎると,焦りを感じて自信を失ったり,ほかの人がやっていることや流行に振り回され過ぎる危険性もあります。自分のペースで地道にやるには,刺激を受け過ぎないことも大切なようです。

ソフトウェア技術者の世界は脅迫に満ちている。「xxを読んでいないと駄目だ」「yyを経験していないやつは使えない」「zzは教養だ」など。ただ、こういう事を言っている本人はxxを読んでいるし、yyを経験しているし、zzを知っている。つまりこの手の脅迫は単に話し手の自己肯定の為に発せられることが多い。

こうした理由から、真に学ぶ価値がある技術は自分で見つけなければならない。それを誰かに教えてもらうことは不可能である。ただ言えることは、”誰かが知っているから学ばないといけないような気がする技術”を学ぶことに翻弄してはいけないということだ。