シリコンバレーから将棋を観る

シリコンバレーから将棋を観る」を読んだ。

はてなのオフィスが京都に移ってから一年以上が経った。はてなの米国オフィスが閉じてからシリコンバレーに行く機会は一度もなかったし、京都は東京よりも更にシリコンバレーには遠いこともあって、梅田さんと対面で話す機会は一頃に比べると少なくなった。そのためか、これまでの梅田さんの本を読むときとは少し違って、著者とのある程度の距離感と緊張を感じながら読み進めることになった。

書名どおりテーマは「将棋」だ。私は将棋は小中学生の頃に少し遊んだぐらいで、ほとんど素人だ。だから、梅田さんが将棋の本を執筆されたと最初に聞いたとき、これまでとは違って、自分は読者対象から外れるのだろうか? などと思ったりもした。とは言え「梅田望夫が"シリコンバレーから"を書名に冠した」というだけでも、自分にとって購入するのに十分な動機はあった。

まえがきと第一章とを読んで「なるほど」と思う。梅田さんは、プロの棋士の生き方を通じプロフェッショナルとは何かであるとか、現代将棋と今の社会との対比といった、将棋に留まらない多様な話題、ウェブ進化論ウェブ時代をゆくで論じてきたことの延長にもあることを伝えたいのだろうと感じた。テーマは将棋であるが、将棋をしない人にこそ読んで欲しいという本。改めて自分は読者対象なのだということに気付いて、姿勢を正す。

ところが、続く二章、三章と読み進めていくうちに、これまでの梅田さんの著書とは少し違うのかも、という感じを受けたのだった。将棋をテーマに将棋ファン以外の人にも、というところはその通りなのだが、梅田さんなりの主張を伝えたいということ以外にも、将棋の世界で繰り広げられる物語や、羽生・佐藤・深浦・渡辺の4名のプロ棋士人間性や生き方・将棋へ向かう姿勢などの描写にかなり重きが置かれている。私には 1. これまでの梅田さんの著作の延長にある梅田さんの社会観 2. 将棋の世界の「物語」 3. 4名のプロ棋士の生き方という、3つの軸で構成されているように読めたのだった。

将棋をテーマに、梅田さんの社会観に触れる

将棋をテーマとしながらも、梅田さんの、これまでの著作で述べられてきた延長としての社会観や主張が込められているというのは梅田さんの著作を読んだ人ならおそらくはっきりとわかる。(一方、今回はそれがメインではないこともわかる。) 例えば第一章『羽生善治と「変わりゆく現代将棋」』では、羽生さんが若い人たちの将棋をかなり意識して見ているということを見ての「その道のトップを含む大人が若者たちから学ぼうという姿勢を貫けば、世の中は明るい雰囲気になってくる。」という梅田さんの語りがある。これは梅田さんがここ何年か一貫して主張されてきたことであるし、また実際に体現されてきたことだ。

途中、羽生さんがオールラウンドプレイヤーである、という話がテーマになる。「理想の棋士とはすべての戦型に精通し、局面での最善をひたすら探すべき存在であって、得意戦法などを持つのは棋士の理想ではない」という羽生哲学についての記述だ。現代将棋においてはオールラウンドプレイヤーであることが、局面局面での"変化"に対応する最善の方法・・・ということなのだろうか。第七章では梅田さんと羽生さんの対談で「この十年では特に、本当に未知の局面で、最善手、またはそれに近い手を思いつける力のある人が有利になったということなんでしょうか?」という梅田さんの問いに対し羽生さんが「いや・・・・やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。」と答えている。そういった曖昧さ、変化を受け入れられるには「すべての戦型に精通」する必要がある・・・ここからは、『ウェブ時代5つの定理』で梅田さんが繰り返し説いていた「不確実な未来に対応するには学び続ける意思が必要」という金言が想い出される。

こういった社会観を将棋界を通じて伝えたいという意思もあるだろうが、一方で、そういった価値観を実際に体現しているのが羽生さんであり、また他のプロ棋士の方々であり、またそれが将棋という文化なのだろう。だからこそ梅田さんが将棋を観ることに惹かれるのではないか。そんなことが伝わってくる。

指さない将棋ファン /「ヒカルの碁」の"ほったゆみ"と梅田望夫

梅田さんは書籍の中で、自分は「指す将棋ファン」ではなく「観る将棋ファン」であるというようなことを繰り返し述べている。そして「観る」という客観的な行為から将棋の面白さ、荘厳さ、そこから学べるものを伝えようとしている。全体を通して語られる大きなテーマのひとつだ。

先にも述べた通り私は将棋は素人なのであるが、梅田さんが記した「将棋界の物語」にぐいぐいと引き込まれて、夢中になって読むことができた。将棋のことは分からない人間が読んでも楽しめるように、その世界が織りなす物語をつむぐことに梅田さんは成功しているように思う。

自らを「指さない将棋ファン」と言う梅田さんが、観る将棋ファンとして、ベストを尽くして物語をつむいだ。その物語を読んで感じたのは、こういう語り手の存在こそが、プレイヤーをとりまく周囲のに人間にとっては重要なのだろうということだった。将棋界には十年に一度の割合で天才が現われるということ、「羽生世代」と呼ばれる世代のプロ棋士たち・・・その壁に挑戦する次の十年の天才であり孤独な渡辺棋士という図、羽生対渡辺・・・勝った方が永世竜王という大きな舞台、そこに至るまでの将棋界の歴史と様々な想い。それぞれ断片的なエピソードであったものが、一人の語り手によって、物語として再構成される。語り手がいなければ、私のような外野には、それぞれのエピソードを繋げることは到底不可能で、その物語の厚みや背景を知ることなどできるわけもない。そして、この「文脈を獲得した物語」があって初めて外野の我々が魅了されるのであろう。その意味で、ウェブや書籍を通じてその領域で将棋界に貢献しようとする梅田さんの試みは貴重だ。

ところで、私が「シリコンバレーで将棋を観る」を読む中、指すことよりも観ることや語ることに意義を見出し、作品として形にするという点で梅田さんと共通する人として、真っ先に想い出したのが『ヒカルの碁』の原作者の「ほったゆみ」さんだった。ヒカルの碁の単行本では、ほったさんが原作を書くにあたっての裏話が合間合間に掲載されている。この裏話が結構面白くて、ほったさんが囲碁に抱く愛情、その荘厳さをどう見ているか、プロ棋士へ抱く尊敬のまなざしなどが良く分かる。ほったさんも梅田さんに同じく自らの指す実力については謙遜しながらも、囲碁への想いをなんとか作品として世に伝えたいというようなことを言っていた。

ヒカルの碁は主人公のヒカルに天才棋士の霊が乗り移るところから物語が始まるが、この作品誕生のきっかけが「趣味でやっていた囲碁が上手くならず「囲碁の神様がいてくれたらなぁ」と思ったこと」(wikipedia:ヒカルの碁 より) だったそうだ。この作品は、囲碁界の描写が現実に忠実であったり、劇中で描かれる対局が実際の棋戦の棋譜を元にしていたりと囲碁のディテールは正確に伝えようとこだわる一方で、その物語の中心は囲碁のルールそのものではなく、少年の成長や囲碁と真剣に向かい合おうとする棋士たちの心理描写であった。結果、囲碁がわからない人にもその魅力を伝えるのに成功した作品として非常に高い評価を得た。この試みの方向性は、梅田さんが狙うそれと、とても良く似ている。

最初からそういう所にハッとしながら本を読んでいたものだから、同時にヒカルの碁の色々な場面を想い出すことになって、それがイメージのヒントになり、現実の将棋界の物語も本当の・・・といっても想像上のだけれど・・・絵になって頭のなかに描かれたのだった。羽生さんと渡辺さんとの 2003 年の対局で、勝利を確信した羽生さんの指が異常に震えて駒が持てなかったという話、渡辺さんがまだ十歳だったころに中原さんが「その子に羽生君はやられるんだ」と言ったエピソード、羽生さん渡辺さんの対局での封じ手時点での深浦さんの感想メールを読んで米長会長が「君も将棋がわかるようになったね」という一行メールを返すあたり、また「かなりの名局だ」と控え室で感動が渦巻く一方で渡辺竜王が「ぜんぜんだめな将棋だった」と漏らすシーンなど、梅田さんが力強く描くドラマの描写では、本当にはっきりと、そのシーンを絵で認識しながら読み、また感動を味わったと思う。

私は囲碁の世界は、ヒカルの碁を読まなければ知ることもなかったし、興味を持つこともなかった。同様に、こうして「シリコンバレーから将棋を観る」を読まなければ将棋の世界について知り、興味を持つこともなかったのではないかと思う。

プロの棋士の生き方

将棋を通じて知る梅田さんの価値観、将棋界の物語は素直にポジティブに読めたし感動的だった。

一方で、私が書籍の3軸のひとつであると見たプロの棋士の生き方は、感動よりも衝撃を強く受けるものだった。将棋のトッププロばかりが登場するので、当然みな天才の中の天才という方々なのだが、梅田さんがあとがきに記すように、彼らが「超一流」であるのは、単に才能があったからではなく、「才能」x 「対象への深い愛情ゆえの没頭」x 「際だった個性」という方程式を満たす人生を歩んできたからということが良く分かる内容だった。そしてその超一流具合が、自分にとっては非常に眩しかった。幼少の頃から将棋に没頭し、皆早くから自分の役割を確信していて、尋常ならない努力を続けてきた超一流たちと、そうはできずに怠惰に過ごしてきた自分を比較する度に、激しい劣等感と後悔に襲われた。そしてそんな超一流たちに梅田さんは惜しみない賛辞を送り、尊敬のまなざしを向ける。梅田さんと親睦のある自分にとってはそれが嫉妬にすらなるのだった。

ただ、その後悔と劣等感は、今の自分にとっては悪いものではなく、むしろ糧だと思う。自分が過ごしてきた人生に対する後悔や劣等感は、結局のところ、その原因となるものを解消する以外に克服する術はない。残念ながら過ぎた時間を取り戻すことはできないが、彼ら超一流の人生を知ったあとで自分にできるのは、自分も一流に近づくために地道な努力をすることだけである。今ならそうポジティブに捉えられる。私はそういうことに自覚的になるのが多分人よりも遅かったんだろう。

だから、将棋界の超一流の人達がなぜ超一流なのか、その人生やプロセスを知ることができたのは、今後の私の人生の過ごし方を考えるのにとても良いヒントを与えてくれたと思う。何年後かに改めて今日感じたことを振り返ったときに、その価値を評価できるのではないかと思う。

梅田さんの試み

梅田さんは「指さない将棋ファン」であり「観る将棋ファン」として「シリコンバレーから将棋を観る」を執筆した。書籍の帯には『私が本当に書きたかったのはこの本でした』とある。正直な気持ちなのだろうと思う。

一方、これは私の勝手な憶測なのではあるが、「観る将棋ファン」が将棋の観戦記を公に発表したり、このように書籍を出版するということに、梅田さんの中ではもしかすれば葛藤もあったのではないかと推測している。というのは、第七章の羽生さんとの対談で「プロのように美しい将棋を自分で指せるようになるには、それこそ一生を費やさねばならない。そんな根性はないから観るだけのファンになるのだけれど、棋力が伴っていないと、発言は控えなくてはいけない。将棋の世界には、そんな暗黙の了解があったと思います。」という発言があったりする。つまり梅田さんが「指さない将棋ファン」でありながらも自分の想いを作品として世の中に発表するためには、既存の枠組みを越える必要があって、本当にそれができるのか、あるいはしていいのかという迷いがあったのではないか、と思っている。

だからこそ、羽生さんが「将棋の途中の感じを観るには、アマとプロの差は、実はあんまりないんじゃないか」と言ったことに梅田さんは「本当に嬉しいことだと思いますよ!」と心から喜んだのだと思う。そして、羽生さんは現代将棋を構築することでそれまでの将棋界に存在していた伝統や暗黙のルールを破壊し、盤上の自由を求めて、それを本当に成し遂げた人である。羽生さんが将棋界の既存の枠組みを越えたのと同様に、梅田さんも既存の枠組みを越える必要があった。書籍の副題を「羽生善治と現代」としたように、梅田さんが羽生さんに特に魅力を感じているのには、そんな所にもあるのではないかと、私は感じた。

そしてその梅田さんの試みは、私から見た限りでは成功していると思う。こうして、現代の将棋界と、そこで活躍する棋士の人生に興味を持ち始めた人間が少なくとも一人はここにいるのだから。

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代