学校の中で身に付けられること

id:moleskin幼少の砌の日記の思い出という日記で、例の小学生bloggerについての考察が為されています。読みながら僕自身納得のいくところが多くとても勉強になりました。

学校あるいは学級という器はBloggerがBlogを書くには狭すぎる。人口密度が大きすぎる。となりのBloggerが物理的にも心理的にも近くに居すぎる。つまるところ日本の学校という空間自体が個人が発言する作法を身につけさせる場としては不適当なのだ。そもそも学校自体が生徒という個人が自分の意見を躊躇なく発言することを奨励していないではないか。

といったところが主な論旨。続く節で、ではどうすれば良いか、ということまで言及されているので、是非最後までお読みいただければと思います。

さて、僕自身の幼少の頃を振り返ってみると、その様子は少し違っていました。おそらく、僕はラッキーで、担任の先生がそういったことを子供に体験させるのに、非常に優れた考え方をもった方だったからじゃないかな、と今改めて振り返ってみています。

歴史の授業の中で、僕の担任の先生は、生徒に歴史新聞を書かせるという企画をよくやっていました。この歴史新聞というのは、その時点で習っている日本史の年代に合わせて、自由テーマで、一枚の紙に記事を起こすというもの。例えば戦国時代なら、信長新聞とか桶狭間の戦い新聞とか、そんな感じ。できあがった新聞はクラスの壁に張り出されてみんなが閲覧できる状態になっている。そこで、面白かったものに投票が行われて、その回の金賞とか銀賞とかが決まっていきました。

おそらく、僕は、このあたりの体験を通じて、第三者に向けて情報を発信することの重要さとか面白さ、そしてそこでフィードバックを受けることの快感みたいなのを覚えていったような気がします。この歴史新聞以外にも、何か学内行事があった後には作文を書いて、良かったものをみんなの前でその先生が(確か名前を伏せていたかも)朗読するというコーナーなんかもありました。

このところ僕ははてなでの開発の仕事以外に、ウェブや雑誌、それから書籍などいくつかのメディアにテキストを寄稿するという活動もしています。各記事が公開された後に、編集の方からその評判なんかをお聞きする機会があるのですが、「伊藤さんの原稿は読み手のことを考えて、当人にとっては当たり前のことを丁寧に解説してあるから読みやすくてよい」という感想を時々いただきます。これはすごく光栄なことです。

僕自身はそれほど、「当たり前のことを丁寧に書く」ということを意識しているつもりはないのですが、どこかで読み手のことを考えて、テキストを書いているのかな、とも思います。まだまだ記事全体の構成とか文章の表現力という意味では未熟だと思い、修行が必要だとは思っているのですが、こういった感想を聞くたびにその心を忘れないようにしなければ、と思っています。

それで、じゃあいつごろからそういうスタンスで文章を書くのだろうと振り返ってみると、おそらく先の小学生の頃の経験が大きいんじゃないかなとよく思うのです。誰かに向かって文章を書く、ということが、結果として評価されるということをそのとき覚えたんだろうと。

結局、優れた教師はこういったことにすごく理解があって、歴史新聞であるとか作品の朗読会であるとか、競争や物理的なインタラクションをうまく抽象化して、まだ無邪気さが抜け切っていない子供たちのモチベーションをうまく引き出すことに長けているのだろうと思います。

学校というのは確かにとても狭く密度の高い空間であり、また子供は時に非常に残酷ですから、そこに渦巻く問題というのは非常に複雑なものになるでしょう。その一方で、良い教師、良い環境に運良くにめぐり合えた生徒は、その中でいろいろな才能の芽を出して、いずれ巣立っていくんじゃないかな、とも思います。