「心にナイフをしのばせて」読後感想

痛いニュース(ノ∀`) : 首切少年Aが弁護士になって悠々自適。ヨットサイトも運営。 - ライブドアブログ という記事を先週ぐらいにたまたま見かけました。1969年にあった少年による殺人事件、その少年がその後弁護士になったということに触れたノンフィクションの書籍「心にナイフをしのばせて」についての記事です。

書籍の紹介から引用します。

高1の少年が同級生の首を切り落とした驚愕の事件。被害者の母はさながら廃人のように生き、犯人は弁護士として社会復帰していた!

1969年春、横浜の高校で悲惨な事件が起きた。入学して間もない男子生徒が、同級生に首を切り落とされ、殺害されたのだ。「28年前の酒鬼薔薇事件」である。
10年に及ぶ取材の結果、著者は驚くべき事実を発掘する。殺された少年の母は、事件から1年半をほとんど布団の中で過ごし、事件を含めたすべての記憶を失っていた。そして犯人はいま、大きな事務所を経営する弁護士になっていたのである。これまでの少年犯罪ルポに一線を画する、新大宅賞作家の衝撃ノンフィクション。(MK)

という内容です。

例によって先の記事のコメント欄やトラックバックはてなブックマークのコメント欄などで批判や議論が起きました。「こんなのまで弁護士になれるのか」「そんなのおかしい」といった批判もあれば逆の意見などもあったりします。実際にどのような意見があるかはコメント欄などを直接参照してください。

話は変わりまして、あるテレビ番組で宮崎哲弥氏が少年法についての議論の中で、この書籍を話に挙げているところが YouTube にアップロードされていました。(http://www.youtube.com/watch?v=CvJPC7C_coc) 氏は書籍の概要をその場にいるコメンテータ陣と視聴者に説明していました。その発言は書籍に書かれていることをそのまま述べられている様子で、特に書籍の内容に関して筆者と異なる見解を述べているわけではないことは、先の引用箇所などと比較しても明白でした。

書籍が発売されたのがつい最近で、このようにウェブやテレビで頻繁に取り上げられるなどした結果、2006 年の今になって事件が再び注目を集めているようですが、記事のコメント欄やトラックバック、それからはてなブックマーク欄のコメント欄を見ても実際にこの書籍を読んだ人や、事件について知っている人の意見というのがないことに気づきました。また、宮崎氏も書籍を最後まで読まれたような印象を受けますが「なぜ少年が殺人を犯してしまったか」「なぜ少年がいま弁護士になったのか」「現在の心境はどうなのか」といった点には触れていませんでした。そして、自分は上の引用箇所の書籍紹介文がマーケティング上の戦略とはいえ妙に煽りすぎではないかという印象も受けました。

ちょっとその辺いろいろ気になったので実際に買って読んでみることにしました。

先に結論ですが、この書籍の内容は非常に問題のあるもののように見えます。内容が被害者側に偏りすぎており、著者による恣意的な印象操作が行われているように思います。

この事件が起こった当時、加害者は未成年の少年なわけですが、少年法が適用されていることによりその少年が成人になったいまも当時のプライバシーは守られる必要があるとのことで、あまり踏み込んだ取材ができなかったようなことが書いてあります。そこは確かに納得のいくところです。

しかしながら、書籍のページ数の 7〜8 割ほどが被害者家族のインタビューや生活の描写で占められており、またその中の多くの部分が

親の期待を一身に背負った兄が突然この世からいなくなると、わたしは怒りの対象にすらなれず、母はわたしが存在していることにも気がつかなくなってしまった。そう、あのころのわたしは、まるで空気のような存在だった。 (P.78 第三章 『闇に凍える家』より)

という具合で、書籍の筆者がインタビューした話を元に被害者家族の視点(ここでは被害者の妹が「わたし」)で当時の様子が綴られるというスタイルで記述されています。つまり加害者に関する情報はわずかである一方、被害者家族に関する情報は非常に詳細に、且つ被害者家族の主観をも交えながらかなりの分量が詰め込まれているということです。また、加害者に関しては被害者家族のように彼の視点で何かを語るような文章の記述があるわけではありません。

僕は先に述べたように少年がなぜ殺人を犯したか、なぜ弁護士になったのか、弁護士になった今の心境はということが知りたかったのですが、それについてはこの書籍からは正確なところを知ることができませんでした。その辺りを知らずして、この事件についての見解を述べることができるわけもありません。(この書籍の筆者はジャーナリストを名乗っています。そんな方が実際にあった大きな事件を一つの書籍として出版するのであれば、その辺りに関しての詳細な記述があって然るべきだというのは言いすぎでしょうか。)

もちろんこれだけが根拠でしたら「印象操作かもしれない」という僕の考えは非常に主観的なものでしかありません。問題は、その少ないながらも記述されている加害者少年に関する記述の内容にあります。

書籍の前半、P.21 あたりからに当時の事件や少年の様子について記述されている箇所がありますが、そこにはこんな記述があります。

当時の新聞報道と友人の証言、そして裁判記録から、事件当日の様子を追ってみる。ただし裁判記録は、少年Aの証言がもとになっていることを念頭においていただきたい。
少年Aの証言は、加賀美君がすでに死亡し、被害者側の誰も審判に出席できず、絶対に反論されないという条件下で一方的に語ったものである。犯行直後に、少年Aが三人組に襲われたと嘘をついたぐらいだから、証言も虚実が混ざっている可能性がある。たとえば事件のあった日、一人の少年が少年Aの国語辞典を取り上げてからかった。そこへ加賀美君があらわれ、「ビニール袋にいれた毛虫をその辞書にはさもうとした」という。しかし同級生にはまったくその記憶がなかった。殺害に至るまでのストーリーは、あくまでも少年Aの目に映ったものにすぎない。(P.21 第一章 『二十八年前の「酒鬼薔薇」』より)

この節の後に、加害者である少年Aの証言の"サマリ"へと続いていきます。書籍に引用された証言に関する記述はあくまで"サマリ"であって、全文ではありません。

さて、その一方で今日 id:send さんにはてなブックマークのコメントで 高校生首切り殺人事件 精神鑑定書 の URLを教えていただきました。こちらはこの事件の少年の証言の"全文"です。また鑑定人の註釈も記載されています。

この全文を、特に鑑定人の註釈を交えて読むと、書籍の筆者がみる少年とこの全文記録から受ける少年との印象が大きく異なることに気づきます。

この記録の中で鑑定人は

犯行について問われることは少年にとってきわめて辛いことが、態度によく現われていた。問診に心から協力的とはいえないにせよ、全体としてきわめて率直に話した。○○○君(引用者註・被害者)との関係、彼に対する気持、犯行直前に「やはり豚だな」と馬鹿にされたこと、その時心の中に出来た劣等感、ナイフで刺して首を切断したこと、怖くなって逃げ出したこと、犯行後の気持などを、ちゅうちょしながらも隠すことなく正直に述べた。また悪魔つきの例外状態や両親のせいなどにしない態度が印象的であった。犯行前後の精神状態に特に異常と思われるところはなく、意識も清明であった。

と述べています。一方の書籍では少年の証言の一部を引用した後に

これを読むかぎり、少なくとも級友を殺害して悔いているとは思えない。反省や謝罪を意味する言葉はどこにもないのだ。むしろ「絶望的になるまい」と自らを励まし、動機を「過去の人間」に結びつけ、さらに「一般に認められれば勝利かもしれないが」と、自分の行動を正当化しようとしているかのようである。そのうえで、少年Aは調査官に、「自分は将来加賀美君の分とあわせて二人分働く」と語ったという。(P.35 第一章 『二十八年前の「酒鬼薔薇」』より)

と記述しています。この書籍の筆者はここで全文掲載されているのと同じ「精神鑑定書」から文章を引用しているにも関わらず、鑑定人の分析とは全く異なる見解をさも事実であるかのように主観を交えながら伝えており、また引用部分も、筆者が描きたいと思っている加害者少年像に沿うように、都合のいいところだけを切り貼りしているようなのです。

この全文をウェブにアップされた本人の方が同じようなことをブログに記述されていました。

『心にナイフをしのばせて』奥野修司というサレジオ高校首切り事件をあつかった本が話題になっているそうで、当データベースの高校生首切り殺人事件にも多くの方が来るようになったので、読んでみました。

この本にはどうもいろいろ問題があるように感じるのですが、その最大のものは精神鑑定書の引用のやり方が著者の意図に合わせた恣意的、それもかなり悪質なものではないかと思える点です。

(もし時間に余裕があればコメント欄でのやりとりまで読んでみてください。)

さて、こういう視点を持って書籍を読み進めていくとどうでしょうか。「高1の少年が同級生の首を切り落とした驚愕の事件。被害者の母はさながら廃人のように生き、犯人は弁護士として社会復帰していた!」という煽り文句によって事件は誇張され、事実がねじまげられているように感じ、嫌悪感を抱きます。書籍の終わり頃になって、成人した少年が弁護士事務所で働いていて、被害者家族と接触をという話に移っていくわけですが、ここも筆者の主観が多く交えられて記述されており、情報が操作されているかもしれないということが頭をよぎります。この筆者が記述していることのどこまでが本当でどこまでが恣意的なものなのかの判断がつきません。おそらくこの書籍に書かれている多くのことは事実なのでしょう。しかし、ところどころに見られる巧みな(?)印象操作の痕跡がその邪魔をします。結局、この書籍に書かれたことをそのまま受け取ってしまってはいけないという風に僕は総括しました。

自分ひとりが本当のことを知らされずに過ごしていたかもしれない、それだけならまだいいのです。しかし、ウェブ上でこの煽り文句が引用され、書籍の内容は吟味されずに「犯罪を犯した少年が弁護士になった」という表面上の話だけでああだこうだと議論が起こってしまった。恣意的に操作されているであろう情報にたくさんの人が巻き込まれてしまった。多くの視聴者が信頼を寄せているであろう著名な評論家ですらそこに気づかずマスメディアにその情報を流してしまった。とても残念なことです。

そしてこの「残念」と思った感覚を、ここ最近メディアなどを通じて味わうことが非常に多いのです。ライブドア事件に関する報道がその最たるものだったように思います。以降、僕はメディアからの情報を素直に受け取ることができなくなってしまいました。結果的には、複数の情報にあたったり、受け取った情報を疑ってみたりといったことを意識的にするようになったため、自分にとってはプラスだったのかもしれません。しかし、多くの人がその情報が正しくない、恣意的に操作されているものであると気づかずにそれを消化しているかもしれない、あるいは自分自身も全く気づかないところで事実を曲げた情報を刷り込まれているのかもしれないと思うと、憤りを感じると同時に恐怖すらおぼえます。

そしてこの大きな不安を解消するための手段として、おそらく現時点でもっとも有効な解はやはり、インターネットなのでしょう。「インターネットでは49対51で正しい方が勝つ」という id:umedamochio が言った台詞の意味を改めて考えることになった一件でした。

2008年3月26日 追記

「情報操作」という言葉の使い方に違和感がありましたので「印象操作」に置換しました。