やる気と身体
ひとたびフロー状態になると、それを維持するのは難しくない。私の一日の多くはこんな感じだ: (1) 仕事にとりかかる。(2) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。(3) 仕事に取りかかる前にランチを取ったほうがいいと判断する。(4) ランチから戻る。(5) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。(6) いい加減はじめたほうがいいと心を決める。(7) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。(8) 本当に始めなきゃいけないと、再び決心する。(9) くそエディタを立ち上げる。(10) ノンストップでコードを書いていると、いつのまにか午後7:30になっている。
ステップ8とステップ9の間のどこかにバグがあるようだ、私は必ずしもこの溝を飛び越えられないからだ。私にとっては、ただ始めることが唯一困難なことなのだ。静止状態にあるものは、そのまま静止状態に居続けようとする。私の頭の中にはとても重いものがあって、それを加速するのはとんでもなく難しいのだ。しかしひとたびフルスピードで回り始めたなら、それを動かし続けるのに努力は必要ない。
これは Joel on Software の中でもたぶん最も読まれているコラムのひとつであろう「射撃しつつ前進」の中の一節。自分はこの節が面白くてとても気に入ってる。「あー、あるある」なんて思う人は結構多いんじゃないだろうか。昨今だったら email というよりも Twitter、Web を見るというより Facebook みたいな感じでしょうか。
実際、やる前は「あのバグ直すのめんどくさいなー、あそこのコード汚いし・・・」とか思いつつなんとかようやく Emacs を立ち上げてみたら、バグを直す前に回帰テストを書く気になって、テストを書いてバグを直したらテストがあるからというのでリファクタリングを始めて、コードが少しずつ綺麗になっていって、気づいたらカバレッジを100%にして、コード全体をプラガブルなアーキテクチャで置き換えていた・・・な、なにが起こったかわからねーが作業してたら面白くなってついカッとなってやってしまった今は反省していない ─ こんなことが良く起こるし、そんな人は珍しくないはず。
今朝方知人の blog を読んでいたら、なんだかやる気がでなくて鬱々としていたけど身体を動かしたらやる気が出てきてよかった、的な事を書いていた。わかるぜ、その気持ち。自分もダイエット目的でジョギングしていた毎日にそういう気分がよくあった。最近は運動しなくなってまた太ってきたけどな。
もとい、問題はどうやって「やる気」を出すかということである。ひとたびやる気さえ出れば、クソみたいな電話や会議で作業が中断されるなんてことさえなければ、それを持続するのは容易い。
会社を辞めて実質的にフリーランスみたいな、自分の時間を自由にコントロールできるあるいはしなければならない状況に置かれた自分にとって一番の問題はここだったりする。そんな折り、たまたま読んだ脳の本に面白いことが書いていた ─「やる気は待っていてもちっともでてこない」。
人間は自分自身の意識の中心が脳みそにあってその脳が身体をコントロールしていると思いがちだけれど、実際には必ずしもそうではないというかその逆であることも多い、そんな話を脳科学の文脈でよく聞くようになった。脳にとっては身体こそが唯一の外界とのインタフェースであり、そこからの信号がなければ脳は世界を知り得ない。だから、やる気が出るまでただ座って待っていてもやる気は出ない。けれども、身体を動かしたり作業に取りかかったりするとその外的な刺激によって脳の神経細胞が活性化して、結果的にやる気を司る「淡蒼球」という部位が起動する・・・とかそんな話が書かれていた。こういうのを「作業興奮」と言うそうだ。
会社勤めしていたころは朝会社にいくのがめんどうだなと思っても通勤しているうちにだんだんとそういう気分も薄れてきて、オフィスについた頃には割とましな状態になっていて (でもその後 email をチェックしたり Web を見たり以下略) それなりに仕事はしていたし、ジョギングをしているうちになんだか気分が晴れてそのまま家に帰って洗濯を始めていたとか、テスト勉強するのが厭で大掃除をしていたらむしろ掃除が捗ったとか、おもむろにエディタを立ち上げてコードを書いてたら夜になっていた、とか思い当たる節がたくさんある。
「やる気がでないなら身体を動かせばいいじゃない。」
問題は身体を動かすやる気すらないということだ。絶対そういうツッコミもあるだろう。が、この「とりあえず身体を動かせばどうにかなるかも」ということを知っているかそうでないかでそこは結構違ってくる。知らなければ身体も動かさずただ鬱々とするだけだけど、知っていれば、「とりあえずシャワーでも浴びるか」とか「ゴミでも棄てるか」とか、そういう一見関係ないところから始めるきっかけを作ることはできるのではないか。自分はそうしてる。
ただ、自分のようなただの一般ピープルがこんなことを言っても「ライフハック(笑) プギャー m9」と刺されるのが近頃ネットの怖いところです。ここは虎の威を借る狐、村上春樹の有名なエッセイから引用しましょう。
アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること ─ リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。
ほら、春樹も言ってるよ。
氏が毎朝マラソンをして、早朝から原稿を書いて昼にはそれを終えて以降はやらない・・・という話は有名だし、また話をあらかじめ考えておいてから文章にするのではなく、そのとにかく継続的に作業する中で浮かんできた話を文章にしているんだ、なんてことも言っている。
前にも書いたが、職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。
すこし、やる気をだすとか物事を継続することとは、とは文脈が逸れてきてしまったけれどこの「書きながらものを考える」ということについては御大もこう言っていたのを思い出す。
ふだんはまったく意識してないと思うけれど、書くことと、話して相手にそれを通じさせようとすることはまったく別のことなんですよ。〈書き言葉〉っていうのは、何か得体の知れないところがある。書いてみると、自分でも気がついていなかった自分自身の気持ちがわかることがあるし、それをもっと深く掘り下げていくこともできる。〈話し言葉〉が相手に何かを伝えるための道具だとしたら、〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具だといってもいい。
そしてそのリュウメイもやっぱり、毎日鬱陶しくてもとにかく机の前に座ることを習慣づけている、5分でも書くようにしてるなんてこととを同著の中で言っていた。そうして厭でも、面倒でもとにかくはじめて毎日続けていくといいと、そういうことでしょう。村上春樹と吉本隆明はよく同じようなことを言ってる。
たくさん手を動かしてると、何かやる時にひとりでに手が動いてくるということがあります。自分の手が覚えてることを、自分でもって納得できるように手を動かすことができたら、いいものができる。
だから、〈量より質〉の反対。
〈質より量〉ってことだと僕は思います。
僕はいつでもそういう考えですね。それ以外は認めないっていうか、自分に対しても認めないできました。
何者かになりたかったら続けること。続けるには、続けるということに気を遣うこと。そしてその続けるリズムを作るためにはリズムが出るのを待つのではなくリズムを作り出すこと。彼らは文学者だし、科学理論的にこういう結論を導いたわけではなく物を書くという長年の経験を通じて得た知見なんだろうと思う。
サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いている。どんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい
そんなわけで面倒なことでも一度やり始めると作業興奮によってやる気が持続する、そういうことを通じてものごとを継続していくのは(職業人としても) 大切らしいです。 そして「やる気」って聞くと精神性にばかり着目してしまうけど、実は人間思っているよりも身体性に支配されているらしい。昔武道をやっていて「心技体」と言われても、当時はいまいちわかったようなわからなかったような感じでしたけれど今なら少し分かる気がしますね。心と体も充実させてこその技である、とな。
以上、朝起きていきなりドラゴンクエスト10をはじめると作業興奮によってついついやり過ぎて一日を台無しにしてしまうので注意が必要、というお話でした。
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